
こんにちは、BONDs編集部のみつぼりです。
前回、第二海堡のトライアルツアーに参加した廃墟好きの私ですが、ツアーを通じて他の砲台跡にも興味を持ちました。
砲台について簡単に歴史をおさらいします。
開国して国防意識の高まった明治時代。海外の戦艦から首都東京を守るために、要塞を造ることを決めました。
まず最初に要塞として整備したのが、東京湾の中でも大陸間の距離が近い、神奈川県の観音崎と千葉県の富津岬、そして砲台の飛距離を補うために造った3つの人工島の海堡と、自然島の猿島です。
要塞はこれだけにとどまらず、神奈川県の横須賀、三浦や千葉県の富津、南房総、館山などにも次々と造られていきました。
それらをまとめて、東京湾要塞と言います。
そして、第二海堡に続いて私が行ってきたのは、横須賀市の観音崎と千代ヶ崎です。
第二海堡のツアーで観音崎のことを知り、観音崎のツアーでガイドさんおすすめの千代ヶ崎のことを知りました。
どちらも遺構がきれいに遺っている、貴重な史跡です。
今回は観音崎の砲台跡についてご紹介していきます。
砲台の構造について
前回の第二海堡では無知のまま挑み、「砲台……ふーん…」という実感がないままの見学でした(特に廃墟目当てだったため)。
ですが、今回はガイドさんの座学講習で勉強した、砲台についても簡単にご説明します。
まず、大砲の種類です。
観音崎には、主に2種類の大砲が配備されていました。
・加農砲(かのうほう)

ウィキペディアより
※観音崎は車輪がなく、どっしりしたものだったようです。
水平に撃ち、敵戦艦の側面を攻撃するタイプ。
操縦者が狙って撃てますが、距離が遠い場合、敵戦艦の位置を把握し着弾までの計算をする施設・観測所があるところもあります。
・榴弾砲(りゅうだんほう)

ウィキペディアより
上空に向かって撃ち、戦艦の上部(甲板)を攻撃するタイプ。船の上部は側面より守りが薄いため、当たれば効果は大きいです。
上空に撃つので、敵から見えないよう壁で砲台を隠すことができます。ですが、操縦者が狙って撃てないため、観測所が必ずあります。
火薬を扱う兵器のため、敵に砲台を攻撃されると大変なことになってしまいます。そのため、大砲を隠し防御するための壁・胸墻(きょうしょう)や横墻(おうしょう)が造られました。
砲弾も攻撃されないよう、横墻の下の地下に弾薬庫を造り、地下から砲座へ引き揚げる揚弾井(ようだんせい)という設備があります。
砲座は一般開放していることが多いですが、弾薬庫は埋められていたり、ツアーのみ公開の場所がほとんどです。
観音崎砲台跡
観音崎の砲台跡は、神奈川県横須賀市の県立観音崎公園内にあり、立ち入り禁止場所以外は自由に見学することができます。元々この公園エリアは旧日本軍の管轄地だったため、永いこと一般の人は入ることができませんでした。
観音崎には遺構がたくさんありますが、集中して造られたものではないため、全部周ると結構歩くことになります。
整備されてしまった部分もありますが、構造が遺っているところもたくさんあるので、見応えがあります。
砲台自体は、大正12(1923)年の関東大震災により、ほとんどが損傷し、除籍となりました。ですが、一部の砲台は第二次世界大戦の終戦まで稼働していたそうです。
では、竣工順にそれぞれの遺構をご紹介していきます!
※今回も写真を撮るのに夢中で、ガイドさんのお話をちゃんと聞けていない箇所もございます。間違っていたりしたらすみません…。
・観音崎第一砲台・観音崎第二砲台 明治17(1884)年竣工
日本で最初に洋式砲台が設置された場所です。同時期に2つできたようです。
まず、第一砲台です。
レンガのトンネルを境に、左右対称に砲座があります。写真だとわかりにくいですが、砲座は結構な広さがあります。20人のツアーでしたが、全員乗っても余裕がありました。
レンガのトンネルの地下には弾薬庫があり、地下から砲弾を引き揚げていたそうです。地下の入口は埋められていますが、ちょっとだけ穴が見えていました。トンネルの中には2箇所の引き揚げ口(揚弾井)が閉じられた跡がありました。
そこから第二砲台へは階段の山を越えた、海上交通センターの建物近くにありました。
ゆるい坂道に沿って、順に砲座が並んでいます。元々6門あったそうですが、現在は3門のみ遺っています。
坂の上から階段のように砲座があるため、「だんだん砲台」というかわいい名前がついています。
冬でしたが緑が豊かで、砲座の上に木が生えていたりしました。
廃墟好きは発狂ポイントです。
そして、砲座と砲座の間に弾薬庫があり、中も見学させてもらえました。
いざ突入!……すると、中はゲジゲジ様方の絶好のお住まいとなっておりました……。あまりの数の多さに怖気付き、写真はまともに撮れず、ガイドさんのお話も聞こえていませんでした……。
弾薬庫の一番奥が明るくなっており、砲弾はこちらから地上へ引き揚げられたそうです。
もうふたつは、入口が埋められていました。葉っぱがおしゃれな感じにかかっていますが、……ここもゲジ様の最高のお住まいとなっていることでしょう……。
・観音崎第三砲台 明治17(1884)年竣工
第二砲台からしばらく歩き、レンガと岩肌の混ざったトンネルを通ります。
第三砲台は、弾薬庫を挟んで2つの砲座に2門ずつありましたが、片方の砲座は見晴台となっています。
また、こちらは榴弾砲という、上空に向かって打つタイプだったため、砲台を隠す壁(胸墻)が高くなっています。
砲座の隣の地下に弾薬庫があり、そこから弾を引き揚げる揚弾井があります。ですが、弾薬庫は埋められ、揚弾井も損傷が激しく崩れそうです。廃墟好きは好物です!
・観音崎第四砲台 明治20(1887)年竣工
第四砲台は現在海上自衛隊の敷地内のため、自由に見学はできません。
ですが、ツアーでは特別に見学ができました!「立ち入り禁止」の場所に堂々と入れるのはいいですね!!
第四砲台には4門の砲座があり、ここは関東大震災で被災しても終戦まで戦える状態でした。今は砲台間の壁(横墻)はなくなっています。
軍道の坂を登ると、海がよく見渡せます。対岸は千葉県富津市です。フェンス中央の上あたりに見える小さい構造物は昭和12(1937)年に造られた、潜水艦を探知するための水中聴測所です。
砲座には大砲の向きを変える際に動かした、車輪の半円の跡が遺っていました。
そして!今回特別に、遺っている弾薬庫を見せてもらいました。
下が入口、上が揚弾井です。フェンスの隙間から、弾を引き揚げるための滑車が見えました。
上に登ってから見ると、弾薬庫に湿気がたまらないようにする、通気口があります。
弾薬庫の中は、レンガの上の漆喰がきれいに遺っていました。
・南門砲台 明治26(1893)年竣工
こちらは4門の砲台が置かれていましたが、現在は展望園地として整備されていて、原型はほぼ遺っていません。
唯一名残があるのが、ぽつんとある丸い花壇が砲台跡です。
草の中には、大砲を固定するアンカーボルトが遺っていました。
・三軒家砲台 明治29(1896)年竣工
こちらは加農砲4門と、速射加農砲2門がありました。今は第二砲座の部分が公園につながる道となっています。
砲座の間の地下に弾薬庫があり、他では埋められていた弾薬庫への階段もちゃんと遺っていました。入口は塞がれていますが、迫力があります。
少し下ったところに速射用の砲台があります。弾の大きさが上が27cmで速射用が12cmのためか、他に比べてコンパクトな砲座でした。
こちらはアンカーボルトが円状にしっかり遺っていました。
・大浦堡塁・腰越堡塁 明治29(1896)年竣工
堡塁は戦艦に対する砲台と違い、陸から砲台を攻めて来た敵に対する砲台です。
大浦堡塁は現在、戦没船員の碑の建つ広場となっています。全体的に整備されているため、遺構はほぼ遺っていません。
腰越堡塁も、うみの子とりでという公園になっていますが、こちらは構造の名残が遺っています。
入口の通路は攻め込まれにくいよう、直線でなく少し折れ曲がっています。堡塁へ入ると、広めのスペースがあり、周りを土手で囲まれています。弾薬庫と砲座の周りにはレンガの構造があり、同じように地下にあったようです。
階段は遺っていませんが、坂を少し上がったところに砲台跡がありました。
・火薬庫・火具庫 明治34(1901)年竣工
現在、観音崎公園の管理事務所のパークセンターは、元は火薬庫として使われていました。戦後は「観音崎青少年の村」として利用され、レンガの上にモルタルが塗られていたそうですが、それを除去し、復元したそうです。窓や内装は改修されていますが、屋根部分の木組みは当時のままだそうです。レンガの合間のアーチ部分は、湿気を逃すための通気口です。
近くで見られませんが、奥にも同様の建物が2つあります。
感想まとめ
ツアーで見た観音崎の砲台跡でした!
まだまだ見所はいっぱいあるのですが、長すぎるのでこの辺にしておきます。
これらの砲台も第二海堡と同様、関東大震災で被災したり、時代の流れに合わなくなったため、実戦で使われることなく役目を終えました。
ですが、この東京湾要塞があったらからこそ、攻め込まれなかったという見方もあります。
廃墟は好きですが、戦争遺構はこれ以上増えないことを願います。
歴史と自然が共存する観音崎砲台跡、ぜひ足を運んでみてください。
みつぼり
※参考サイト(ツアーでお世話になった、ガイドのデビット佐藤さんのサイトです)

<前回の記事はコチラ>
東京湾の人工島・第二海堡トライアルツアー参加レポート